ことりと太陽

 琴里は美しい少女でした。毎朝ママがとかしてくれる髪は濡れたカラスの羽の色をしていましたし、瑠璃のように綺麗なワンピースがよく似合っていました。それに、ウグイスのように透き通った愛らしい声を持っており、習い事のヴァイオリンは歌うように奏でることができました。その音は誰をも虜にする響きだったので、琴里は宝物として扱われていました。
 琴里は周りの大人たちから大切に育てられてきました。赤みの差した頬や細い手足に傷がついてはいけないと、同い年の子どものように外でやんちゃに遊ぶことはありませんでした。ママが用意してくれた上等な衣服も、汚さないようにと躾られました。
 琴里はよい子なので言いつけを守りました。勉強も習い事も琴里なりに頑張りました。でも、一度、ママにわがままを言ったことがあります。
ある日、部屋でヴァイオリンを弾いていたときのこと。窓から差す日の光が眩しくなって、琴里が空を見上げると、鳥たちが空を飛んでいました。ですが、鳥たちはすぐに窓枠の向こうへと姿を消してしまいました。琴里は彼らの行き先を知りたくてたまらなくなったのです。
そして、琴里はママに友だちが欲しいことを打ち明けました。以来、琴里の部屋には籠に入った鳥が一羽います。「ただいま」と呼びかければ『ただいま』と返してくれる賢い鳥です。
「これで寂しくないよね」と、ママが言いました。琴里はママを困らせたくなかったので『寂しくないよ』と答えました。

 同級生たちの間ではドッジボールが流行っていました。ですが、琴里は仲間に入れません。指を怪我でもしたら、ヴァイオリンが弾けなくなってしまうからです。体育の授業も琴里はひとりで見学です。みんなは、琴里の存在を知らないみたいに楽しそうに笑っていました。
 そんな琴里の慰めは、音楽室に向かう廊下に飾ってある一枚の絵を眺めることでした。昔の卒業生の作品だという、画用紙に描かれた湖畔の絵は、湖が朝の日差しを浴びてキラキラと煌めいておりました。浮かぶ船は静かに揺れ、瑞々しい草原と水が滴る若葉に、連なる青い山。空には流れる薄い雲がかかり、画の真ん中では鳥たちが羽ばたいていました。
 琴里はその絵を見ると、胸がときめいて体がふわっと軽くなります。湖の上を走り抜ければ波紋が広がり、勢いよく天に手を伸ばせば、絵の中の鳥と一緒にどこまでもいけそうな気持ちがしました。
 そんな空想に思いを馳せ、琴里は叶わない夢に憧れを抱いていました。いつかこんな世界へ行ってみたい。でも、ヴァイオリンを疎かにすれば、ママや周りの大人たちは琴里に失望するでしょう。その苦しさには耐えられません。琴里は気持ちを自分の胸にだけ秘めておこうとしていました。
「朝比奈さん、この絵が好きなの?」
 ハッとして振り返れば、そこには女の子がいました。琴里は心の内を知られるのが恥ずかしくて、何も答えられませんでした。
 女の子は絵を指さしました。
「これ、私の兄ちゃんが描いた絵なんだ。ほら、『日野』って名前が書いているでしょ?」
 その子の言うとおり、額縁の際に小さく署名が入っていました。日野さんは誇らしそうに胸を張って、琴里に笑いかけました。
「兄ちゃん、画家なんだ。これも、うちの近所を描いた絵なの」
 琴里は驚いて、目を見張りました。
「……この絵は、本当にある場所なの?」
「うん、そうだよ。綺麗でしょ」
 琴里は自分の心臓がドキドキし、いつもより大きく鼓動したのがわかりました。だって、空想では終わらない夢の続きが、すぐそばにあるのですから。絵の中にある世界は、琴里の住んでいる世界だったのです。
「良かったら、案内してあげようか?」
 琴里は首を縦に振ろうとしました。ですが、その瞬間にママの顔が浮かびました。ママは怒った顔をしています。琴里はためらい、首を横に振りました。
『レッスンがあるから……』
「じゃあ、明日は?」
『明日も……』
「休みの日は?」
『ずっと、練習しなくちゃいけないの』
「朝比奈さんって、いつ遊んでいるの?」
 琴里は、おもちゃのヴァイオリンをデタラメに鳴らしていた頃を思い出しました。琴里にとっては、楽器を弾く時間が遊びの時間でした。けれど、いつからでしょう。演奏を止めると怒られるようになったのは。上手に音を鳴らさなければ、大人たちは琴里を叱りました。だから、琴里には遊んでいる暇なんて無かったのです。
「なら、今日行こうよ」
 そう言って、日野さんは琴里の手を強引に引きました。

「本当に……いいの?」
「お稽古の時間までに間に合えばいいんでしょ」
 琴里の知らない道を日野さんはズンズンと進んでいきます。琴里は迷子にならないよう後をついて行くだけで精一杯です。灰色の塀に囲まれた細い路地も、木々ばかりの遊歩道も、琴里は初めて通る道です。腐りかけの古びた木の道は、踏むとぐにゃりと柔らかい感触を返すので、琴里には気味が悪いのでした。
 琴里は洋服を汚さないため、ゆっくり歩こうとしたのですが、日野さんに置いて行かれるので、勇気を出して腐葉土の上を早足に急ぎます。アリやバッタが飛び出すたびに、琴里は小さく悲鳴を上げました。そのたびに日野さんは呆れた声で笑うので、こんなに意地悪なら、ついてこなければ良かった、と琴里は後悔しました。しかし、帰り道がわからないので仕方なく日野さんを追いかけます。
 そうしているうちに視界が開け、琴里の目の前に、風になびく草原と太陽の光を反射する広大な湖が現れました。
 琴里は日野さんへの不満も苦労も忘れて、景色に目を奪われました。
 湖は太陽の光を受けてキラキラと輝いており、浮かぶ落ち葉がたゆたっていました。足下の草花は生き生きとして、自然の薫りで清々しい気持ちになります。遠くの山は絵で見たとおりに並び、空は青く澄み切っていて、鳥や虫の声が混ざります。
 絵の中の世界と同じ風が、琴里の髪や頬を撫でました。
「こっちにおいでよ」
 日野さんに言われるままに一歩踏み出すと、琴里は絵の世界の住人になりました。

 湖の畔で琴里は日野さんとふたりで歩きます。学校の勉強の話や給食の話、好きな食べ物や苦手なことなど、日野さんとのおしゃべりは琴里にとって新鮮なものでした。誰にも話したことのない話題でも、日野さんが相手なら簡単に口に出せてしまいました。日野さんは一緒になって笑ってくれたり怒ってくれたりしました。
 日野さんは原っぱに座ると、仰向けに寝ころびました。琴里もそうしたくなって、真似して寝ころびました。地面は少し湿っていましたが、温かく感じました。生い茂る野草が肌をくすぐります。それに、一面が青い空です。白い雲がゆっくりと形を変えながら動いていきます。両手を無防備に広げれば、琴里は鳥になりました。
「ねえ、あっちに行ってみようよ」
 琴里は呼びかけに答えました。

 湖の上をふたりは歩いていました。浅瀬が湖の中州まで続いています。絵では描かれていない場所でした。泥が巻き上がらないよう、そっと道を歩けば、足下で波紋が広がりました。透明な湖は底の小石までよく見えましたが、同時に青い空を鏡のように水面に映していました。それは覗き込むものの姿も映すので、空を背景にした琴里の笑顔もありました。
「なんだか、空にいるみたいでしょ」
 日野さんが琴里の手を取って腕を広げると、水面の日野さんが空を飛びました。

 突然、メロディーが世界の外から琴里の元に届きました。街の時計が五時を知らせる時報です。琴里の頭の中で音色がヴァイオリンの旋律へと変わっていきます。
習い事の時間が来てしまっていたのでした。琴里は遅刻です。ママや先生の怒鳴りつける声が今にも聞こえてきそうで、琴里は水しぶきを上げて湖を後にします。遊歩道へ向かうとき、日野さんが琴里を追い越しました。
「ごめんね、琴里ちゃん」
 日野さんは琴里を導くように先へ先へと走っていきます。琴里がいくら走ってもついて行くのがやっとで、手を伸ばしてもその背中には届きません。
「お母さんに怒られたら、私のせいだって言ってね」
 別れ際、日野さんは琴里にそう告げました。

 琴里は急いで家に入ります。ママはまだ帰ってきていません。レッスンに行かなかったことを隠そうとしても、濡れた靴や土に汚れたワンピースはママに気がつかれるでしょう。だから、琴里は籠から鳥を出して、窓を開けました。鳥は戸惑って、窓枠の辺りをウロウロと歩きます。玄関のドアが、ガチャリ、と開く音がしました。慌てて琴里は手で鳥を追い払いました。驚いた鳥は羽ばたいて、窓の外へと飛んでいきました。
 琴里の部屋のドアが、勢いよく開きました。そこには、怖い顔をしたママが立っています。
 琴里は息を呑みました。
「琴里、レッスンはどうしたの!?」
勝手に休んだ琴里のことをママは許してくれないでしょう。ですが、琴里は勇気を振り絞って言いました。
「鳥が逃げてしまったから、探しに行っていたの」
 真っ黒な罪悪感が、痛みを伴って琴里の内から湧き上がりました。琴里はほんの少しの高揚感には、気づかないフリをしました。
「ちゃんと籠を閉めておきなさいって、ママ、言ったわよね?」
「ごめんなさい。ママ、でもね」
「言い訳しないで! 遅れを取り戻すのが大変なの、わかるわよね?
「ええ、ママ」
「あなたのためを思って言っているのよ、琴里。あなたはよい子だから、ちゃんとできるわよね……」
「はい……」
「また、頑張りなさいね」
琴里は今日あった出来事を自分ひとりの胸の中にしまいこみました。
この先、日野さんと湖を歩くことは無いでしょう。部屋には一羽の鳥も、もういません。ママの言いつけは、もっと厳しくなりますし、ヴァイオリンも更に頑張らないといけません。
 ですが、それで良かったのです。これは叶うはずのない夢が叶った代償なのです。決して辿りつくことのない太陽を目指した、琴里だけのとっておきの思い出なのです。
 そして、琴里は再び、ひとりになりました。

音楽室の前の廊下で、琴里は夢の世界に思いを馳せていました。
そんなときに、女の子が呼ぶ声がして、琴里は驚いて振り返りました。
「どうして」
「『どうして』……って、だって私ら友だちでしょう? 今度は、お稽古に遅刻しないように、遊ぼうよ。琴里ちゃんのヴァイオリンも聞きたいんだ」
 ママの顔が浮かびましたが、琴里は今度こそ、首を縦に振りました。

 琴里は部屋に日野さんを招待しました。そして、日野さんのためにヴァイオリンを弾きました。曲の途中で、窓ガラスがコツコツと音を立てました。琴里が窓を開けると、一羽の鳥が隙間をくぐって、琴里の肩に止まりました。
 鳥は琴里に『ただいま』と言いました。
「おかえり」
 琴里はもう寂しくはありませんでした。素敵な友だちが、ひとりと一羽、琴里の演奏を聴いているからです。