十六夜たるものとして

母はいつも同じものを ふたつ くれました。
けれども申し訳なくて、使うのはいつも片方だけでした。
ある日、私は身につけていた片方を失くしてしまいました。
知った母は、それはひどく取り乱しました。
日頃の母からは想像のつかない荒れ様で
これから始まるお家の修行がいい子じゃない私への
戒めにも感じられました。
あれは、ふたつのものは、私にくれたものではなく、
完璧主義な母が対にさせていたものであって
謂わば、母とお揃いのものだったのです。

お家の修行は祖母の取り仕切りでした。
離れの小屋は、それは寂しいもので
教師が付いてくれる他は母屋の賑やかな話し声を
遠くに聞くだけでした。
氷室と十六夜へのご機嫌伺いのついでに、と、
茉咲さんやしずるさんが尋ねてくださった日は
喜びで心が舞い上がって、高くの日の差す窓から天へと
突き抜けてしまいそうになります。
そして夜が悲しくなります。
頼りない姿の人影がどこかにないかと、探してしまう日もありました。
恋しい、とは、この気持ちのことでしょうか。
教科書や辞典には書いていませんでした。
誰かに尋ねるのも気恥ずかしいものでした。
それに、祖母にはきっと、知られてはいけないものだと。
毛糸の編み目を探しながら、思いの数だけ針を通しました。

母は、時折様子を見に来てくださいました。
持ってきてくださるものは ふたつ づつ。
私はひとまずいただいて、他愛のないお話をしてから
母に半分をお返しします。
「この小さな部屋には収まりきらないので、
どうか取りに行くその日まで預かっていてください。」
ふっ、と吐く母のため息が胸を苦しくさせて、
残された部屋には何もない時間だけが漂うのです。

私のお役目は祖母の跡を継いで、村に尽くす十六夜になること。
そのためにも相応しい振る舞いを身につけなくてはならないのに
どうしてこうも未熟のままなのでしょう。
惨めな気持ちにこみ上げる衝動で不恰好になってしまう前に
化粧台の上に立てかけた小さな鏡を見て笑うのでした。

祖母は厳しい人でした。
私から声を掛けることは許してくださらず、
お話することは数えるほどしかありませんでした。
私が粗相をしてしまい、お手伝いさんたちに叱られていたとき、
偶然、祖母が通りかかりました。
目も合わせてくれることのない祖母が、その時だけ私の顔を凝らして見つめました。
私は突然のことで、叱られていることも忘れてすくみ上がってしまいました。
祖母は一息おいた後、呆れたように冷たい眼差しで、口元を覆って言いました。
「この子を取り上げたのは、間違いだったかしら。」
背筋が凍ると言うことがどんなものかをその時初めて知りました。
鋭い目つきで射られた私は、失望よりも底知れぬ恐怖を感じました。
祖母はまた私から関心を失って、歩き出しました。
私はお手伝いさんに叱られた言葉も覚えてはいませんでした。

冬は孤独で身も心も震えていました。
春は村の景色を懐かしく思いました。
夏は日の長さが永遠のような時間を感じさせました。
秋は、木代理さまが村にお越しになられたとの知らせを受けました。
ですが、私がそのお姿をお目にかかることができるのは
まだずっと先のことでした。

小屋での修行を始めてから二度目の春が訪れました。
始まりの季節の最初の知らせは、茉咲さんが「獅子を継ぐ」ということでした。
それが意味することが何なのか、すぐに察することができました。
けれども、私がこの小屋から出ることは叶わなかったのです。

制服を着る茉咲さんは、今の私にとってはとても大人になったように見えました。
その他は変わらず健康的な姿でいましたが、心は疲れてしまっているようで、
口数は迷っているように少なくて、選んだ言葉は非常に弱くて、
それでも弱音を吐かない茉咲さんに私は何もしてあげられませんでした。
「これからはあたしが獅子をやってみせるよ。」
強く言う茉咲さんの声は透っていて、人生を掛ける大きな覚悟をしているのに、私の心の中に茉咲さんを心配してしまう不安を欠片も残しませんでした。
どこまでも広がる新緑の大地のように、響いて、突き抜けて、悩んで戸惑ってばかりいる私と反対に、立派でたくましい強さを持つ茉咲さんに憧れていました。
「かなめ……ぬいぐるみを作って欲しいんだ。」
決意した茉咲さんが唯一つだけ、私に言ってくださった頼みごとでした。
手のひらの大きさほどのぬいぐるみを作って欲しいと、それは小さな願いごとでした。
私にできることで茉咲さんを支えることができるならば、と、今思えば厚かましい気持ちだったかもしれませんが、その時はひたすらに彼女のしなやかでまっすぐな心を癒せますようにと思いを込めてクマのぬいぐるみを作りました。

小屋で過ごす最後の日を迎えました。
15歳の誕生日でした。
部屋を出ていく前に生活に使っていたものをすべて片づけなくてはならないため、ひっそりとした一日でした。
それでもどれだけこの日を待ち焦がれたか。
部屋の真ん中に座り、まとめた荷物を身に寄せて、窓の向こうを眺めました。
日の当たる空の下、人々の行き交う町並み、そよぐ草花、澄んだ空気……すべてを一刻も早く感じたく願っていました。
この肌で触れる感覚を思うと、平静でいようとすればするほど、こぼれる笑みを我慢できなくなるのです。
これからは会いに行きたい方々にいつでも会いに行けるでしょうし、離れていた家族とまた暮らすことができるのです。
それに、もしかすると、久しく忘れられていた誕生日を誰かが祝ってくれるかもしれなかったのです。
胸が躍りました。

「お久しぶりです。おかあさま。」

母屋の自分の部屋に戻る際に、母の部屋に立ち寄りました。
変わっていない部屋の並びが懐かしくて、戸を叩くことでさえもこそばゆくて心地よいものでした。
母は何と言ってくださるだろうかと、嬉しくてたまらない気持ちを堪えます。

「要菊。」

名前を呼ばれると身体の芯が熱くなって、温かいものがこみ上げてきました。潤む瞳がそれ以上先へ進まないように、今少しだけ母から目を逸らしました。

「……はい。」

「戻ってきたのね。」

「はい。」

精一杯の笑顔で、私は母の顔を見上げました。

「何をぐずぐずしているの。木代理さまにご挨拶に行きなさい。
十六夜なのに、出来損ないなのね。」

それは、おばあさまと同じ眼差しでした。

「失礼致します。十六夜の要菊と申します。
本日離れから戻りましたのでご挨拶に参りました。お目通り願います。」

お話でしか聞いたことのない木代理さまは、私と同じ年くらいの女性だと伺っていました。
そして、既に雛野様をお側に置いていること、それしか知らされていませんでした。
ですが、先ほどの母の言葉は、母は私よりも木代理さまの方が大切であることを示していました。木代理さまを信仰する村で、仕える十六夜の立場ですから当然のことなのですけれども、どこかに母や私の勘違いがあれば良いと淡い期待を抱いてしまいました。思ってはいけないことだと分かってはいるのですが、頭の片隅に消えない感情がわがままな子供のように腕を引いて邪魔をするのです。
私は未熟をなくすために小屋での日々を過ごしてきたのに、ここでしっかりしなければ月日が無駄になってしまいます。
十六夜として認めてもらわなければなりません。
手を付いて頭を深く下げた時に、ひとり、練習した笑顔を忘れないように口角を上げました。
この世で一番畏れ多く威厳のある神様を前にしても決してみっともない姿を見せないように、前を向きました。

不機嫌そうにこちらを睨む小さな女の子と、それは美しい雛野様が広間にふたり、いらっしゃいました。